2012年12月21日金曜日

2012年取材(ウガンダ・中央アフリカ・帰国)

【2012年12月2日】

昨日、無事にウガンダに戻りました。首都カンパラのちょっと下町に位置する常宿に滞在中ですが、ルワンダの首都キガリと比べると車の数が多すぎて大気汚染がかなり酷いのが気にかかります。(写真)今回ルワンダ往復時に乗ったウガンダ航空の機体










【2012年12月6日】

搦手からのアプローチも不発。本日は一日ホテルで過ごしてしまいました。時間はあるので自作の執筆をしているのですが4年以上かかってまだ第一章の中盤(全八章予定…)。初アフリカから現在までを綴る予定ですが、やっと初めてアフリカ大陸に上陸したところ。なんとか今回第一章は終わらせたいな…。

【2012年12月7日】

(17時30分)今日の地震のニュース驚きました。ニュースを見ている限りでは幸い大きな被害はなかったようですが、皆さん大丈夫だったでしょうか?こちらはダメもとでジェネラルに電話したところ、本日ウガンダに戻ってきて現在会議中とのこと。うまくいくと今日会える可能性が出てきたので、現在待機中です。

(18時30分)残念ながら今日(金曜日)会うことは出来ませんでしたが、電話で直接話し、明日の夕刻会う約束をもらえました。もっともここまでの展開を考えると手放しで喜ぶ事はできませんが...。明日こそ芳しい報告ができるよう祈ってます。

【2012年12月8日】

(16時43分)約束より20分早くオフィスに到着。今日こそは!!

(18時)いまエンテベ空港(首都カンパラから35キロ離れたウガンダの国際空港がある町)にいらっしゃるとの情報。「19時頃にはつくんじゃないかな」とオフィスの兵士。会えるのであれば何時まででも待ちます。

(20時)待ちました3時間。途中で20人位のボディーガードに守られ防衛大臣がジェネラルに会いに来ました。「今日こそ!」と思いました。が、緊急事態発生らしくジェネラルはエンテベのエアベースに引き返し今日はカンパラには戻って来ないそうです。一応明日17時にアポは取れましたが。明日こそかな...。

【2012年12月9日】

(16時30分)今日も万が一を考えて30分前に来てしまいましたが、もちろんまだいらっしゃいません。
今日こそは!!本当にお願いします。(今日は日曜日ということが、かなり懸念事項ではあるんですが...) 





(18時)無事にジェネラルとの打ち合わせが終わり、水曜日から中央アフリカに行けることになりました!しかもジェネラルの業務に同行させていただく形なので、大事件が起こらない限り間違いなく行けそうです。現在、調整業務をしている方の到着待ち。詳細が決まったらまた報告します。

【2012年12月10日】

今のところ順調です。中央アフリカ取材の詳細に関して、本日軍から連絡があり、水曜朝6時に空軍基地集合し南スーダンのYambio(ヤンビオ)→http://mcaf.ee/e3wty に向かうそうです。その後の展開は現地入りしてから別途調整する形になると思います。
今回の取材趣旨は、「LRAおよびリーダーのコニーの現状」、「現在行われている作戦の進捗(そういえばこの作戦の名称を聞いたことがないような…)」、「LRAによる人的被害および地域社会への影響」の三点。そして可能であれば討伐作戦が行われている前線への同行です。
ヤンビオがベースなら、どうにか民間の回線を確保できそうなのですが、中央アフリカかコンゴ民がベースになると立地的に(中央アフリカ/http://t.co/L4x8boJh)(コンゴ民/ http://t.co/sLjNNXjV)とても期待できないため、その際はウガンダに戻ってからまとめて報告します。
ちなみに「どのような場所に宿泊するか」「ウガンダに戻る日」もまだ未定です。ただ22日の便で日本に帰国しなければならないため、非常に残念ですが日程的にソマリア取材は見送らなければならない可能性が高くなってきました…。まあ全てはフタを開けてみないと分らないので後は流れに身を任せます。
【参考】LRAに関して~【記事】http://t.co/q6T7CJvb(「映画『War Dance』パンフレット寄稿原稿」・「社会新報『Child Soldie』」/かなり古いです…。帰国したらアップデートします)【写真】http://t.co/iMFy3F6H(子ども兵士-ウガンダ)

【2012年12月11日】

明日からどんな場所に泊まるか分からないので、蚊取り線香・洗剤・石鹸・トイレットペーパーなど最低限の物を買い出しに来て、今はカフェで一服してます。
でも一番欲しかった蛇用の忌避剤が見つかりません...。日本で買ってくるべきだったなぁ...。





【2012年12月12日】

(6時)いま空軍基地でジェネラルの到着を待っています。なんとか問題なく行けそうな気配です。(写真)すぐ隣にある国連の基地。








【2012年12月13日】

昨日(水曜日)無事に南スーダンに到着しました。ただベースキャンプは当初聞いていた「ヤンビオ」ではなく北西に20キロほど離れた「ヌザラ」でした。
ンザラは電話もつながるかどうか怪しい田舎で、とてもネット環境は確保できないため、今はヤンビオのラジオ局で回線を借りて接続しています。(写真)現在滞在している「ヌザラ」のベースキャンプ




【2012年12月14日】

昨日と本日は、ジェネラルの会議が続いたためベースキャンプでボーッとする日々でした。でもついに明日から中央アフリカ・コンゴ民主共和国に行けるようなので、しっかりと取材をしてきます。また時間ができた時にヤンビオまできて報告したいと思います。(ウガンダへは19日に戻る予定です)

【2012年12月15日】

残念ながらまだ南スーダンから出られてません。本日は前線に行ける予定だったんですがフライトが急病人搬送のため急遽ウガンダ行きになってしまったのですることがなくなり、代わりにヤンビオまで連れてきてもらいました。明日こそは中央アフリカのオボに行けるはずなので、引き続き頑張ります。

ちょっとだけリアルタイム


私が今いるベースキャンプを紹介します。
写真は滑走路。見ての通り未舗装なので、ヘリや小型のプロペラ機しか着陸できません。ベースキャンプは滑走路の脇にあるので、離着陸のたびに激しい砂埃に襲われます。




写真は与えられているテント。電球とマットレス・蚊帳がついてます。中央下と右奥は穴が空いてたのでガムテープで補修しました。兵士たちには「気にしすぎ!」と笑われていますが「目が覚めたらテント内に蛇が…」という事態だけは絶対に避けたいので…。








向かって一番左が私のテントです。アフリカのジャングルというと灼熱のイメージが強いと思うのですが、確かに昼はそれなりに暑いのですが、朝晩の冷え込みはかなり厳しく、長袖のTシャツの上に山登り用のウィンドブレーカーを着てても寒さで凍えます。




【2012年12月19日】

(18時)今、なんとか無事にウガンダ北部のアルアという町まで戻ってきました。これからエンテベに戻り、そのままカンパラに移動します。







(23時)先ほどカンパラに到着し定宿で一週間ぶりにビールを飲んでます。都合14時間かかりましたが今日ウガンダに戻れたのは僥倖でした。昨夜は帰国予定日に間に合わない可能性が高くかなり焦ってました。詳細は明日にして今日はシャワーを浴びてゆっくり寝ます。






【2012年12月21日】

明日の帰国に備え現在お世話になった方々へのお礼参り中です。中央アフリカ・ディジャマはデータ通信どころか電話さえ通じない場所だったため、結局、何一つRealtimeに発信できなかったのは非常に残念ですが、最前線に行くことができ、色々と引っかかっていた事柄が解きほぐされました。

詳細は帰国後ブログで報告する予定ですが、ンジャマの人々の暮らしを始め、LRA殲滅作戦が長期間にわたっている理由、誘拐された子ども達が今どんな環境で生きているか、身をもって知る事ができました。

後は無事に日本に戻るだけですが、先日のルワンダ行きのドタバタもあるので気を抜かないように気をつけます。最後に、今回の取材に際し全面的にご協力くださった元帥と現地で取材調整を行ってくださった作戦司令官を始め、ウガンダ人民国防軍の方々に深く感謝いたします。ありがとうございました!

【2012年12月23日】

本日夕刻無事に帰宅し悩んだあげく夕食はラーメンにしました。さすがに夜になると日本の方が寒いですが、中央アフリカの朝は今の季節の夕刻並だったので、意外とすんなり日本の冬に適応できそうです。今回はほとんどリアルタイムではありませんでしたが、お付き合いくださりありがとうございました。

2012年11月30日金曜日

2012年取材(出発からルワンダまで)


2012年の取材時にTwitterで発信した情報のまとめです。(2015年1月18日作成)

【2012年11月9日】

アフリカ取材の日程が決まりました。11月21日~12月21日。ウガンダから入りソマリア・ルワンダ、そして今年こそなんとかLRAがいる中央アフリカに行ければと考えています。


【2012年11月21日】

今、成田空港です。一年ぶりの取材でちょっと緊張していますが、現場勘を早く取り戻せるように、まずは焦らずしっかりと現地での準備を進めたいと思います。
一年で唯一の「realtime press」な時間。
頑張ってきます!



【2012年11月22日】


無事にウガンダに到着。空港のあるエンテベから首都カンパラまでは大渋滞で2時間近くかかりましたが、携帯の通信環境も整い、先程ホテルにもチェックインしてまずは一段落です。写真は南アフリカに本社があるMTNという携帯電話会社の空港支店。今の時代、どの国に行っても空港でその国の携帯電話番号を入手できます。














【2012年11月23日】

去年、暴漢に襲われ瀕死の怪我をしたナボス。 http://t.co/EQlrfwtU とても嬉しい事に、順調に回復しドライバーとして復帰していました。
ただ、今からいつもお世話になってる元大臣(現国会議員兼県知事兼社長兼その他たくさん)の所に行くのですが、待ち合わせ場所で事故に巻き込まれたor起こしたらしく揉めてます。
結局、事故のトラブルは警察も来てちょっとドタバタしましたが、なんとか示談で終わりました。そしてナボスとは昨年の事もあるので、「恐らく元大臣が送ってくれるから大丈夫だと思うけど、万が一足がない状態になったら連絡するね」と伝え、早めに帰宅してもらいました。


【2012年11月24日】


元大臣とお会いした後、元大臣のイタリア人友人の方達と夕食を食べ先程(ウガンダ時間で深夜1時)ホテルに戻ったんですが、なんと私のことを心配して無事に帰られたかどうか確認するため、ナボスがわざわざ電話をくれたのです。この時間まで寝ないてまっててくれた彼の優しさに感動しました。

写真は昨日連れて行ってもらったイタリアンレストランです(アフリカにもこういう場所はあるんです)。かなり雰囲気がよく料理もおいしかったです。今日は今から元大臣の姪御さんの結婚式に参列。今日はトラディショナルな式らしいので楽しみです。



【2012年11月24日】


油断大敵。頭でだけ分かっていても、やっぱりダメですね…。ひったくりに携帯を奪われかけ、出発間際に今回の取材用に買った物が壊れてしまいました。完全に私の油断で、間抜けなことに渋滞中の車で窓を開けたままメールをしていたのが敗因です。

私は助手席に乗っていたんですが、突然車の右後方を激しく殴る音がし「何事!?」と振り返った瞬間、窓の外から手が伸び私の手の中の携帯を奪いとりました。幸い盗難防止用にベルトからチェーンで繋いでいたので犯人もそのまま奪えず、その間に周囲にいた人達が邪魔をしてくれ一旦は取り押さえました。

その拍子に犯人の手から携帯が落ち、無惨な姿になってしまったのです。そして仲間が駆け寄ってくる姿が見えたので携帯を拾い上げ安全確保のため(武器を持ってる可能性があるので)車に乗り込みました。

幸いこんな事もあろうかと二台予備を持って来ているので大きな支障は出なさそうですが、プロの手口、勉強になりました。アフリカで犯罪に遭うのは10年ぶり(三度目)でショックはショックですが、幸い怪我はなく機材的にも致命傷ではないので、身も心も引き締まって良かった気がします。



【2012年11月25日】


(14時)ウガンダ軍トップのジェネラルとアポが取れ、今、軍のヘッドクオーターオフィスにいます。ここまでは順調。後は今からの交渉次第なので頑張ります!

(18時)急遽大統領との打ち合わせが入ってしまったらしく、5分だけでしたがジェネラルと話し、無事中央アフリカ+ソマリア従軍の許諾をもらい、来週月曜に再度打合せする事になりました。明日は昨年手間取った広報責任者の中佐(少佐から昇進したらしいです)に前もって根回ししてきます。


【2012年11月27日】

残念ながらまだ中佐と連絡がとれません…。でも布石は打ったので明日から土曜日までルワンダに行こうと思います。昨年は諸事情により行けなかったため娘のコロンベ→ http://t.co/Hmi9Sler との再会は二年ぶり。どれだけ成長しているか楽しみです!



【2012年11月28日】


(10時)嫌な予感…。本日15時にルワンダ大使館でビザを受け取り18時半発の飛行機で同国に向かうのですが朝から凄い雨。空港まで通常なら50分、渋滞してても1時半の予定でしたが、インフラが脆弱なアフリカ。雨はハプニングの要素に…。幸運を祈ります。








(15時)まだルワンダのビザをもらえません…。やばいかも。。

(15時48分)予定より35分遅れでビザをゲットし今から空港へ。その前にまずはガソリン補給中。1リッター約110円。人件費など考えると日本より高いかも。 








(16時5分)ナボス(ドライバー)さん、無理なショートカットはダメですって。路肩の穴にはまって、さらに10分ロス。左前輪ダメージ大。異音が…。(写真)こちらではトラブルが発生すると人が集まってきて手伝ってくれます。もちろん最後に駄賃を請求されますが。








(16時45分)空港まであと24キロ。車のダメージが心配なので、最高速度は50キロに限定。到着予測時刻はは17時5~10分。チェックインに間に合うかどうか際どいところです。(こんな事でRealtime pressしてる場合じゃないんですが…)

(17時45分)なんとかギリギリ間に合いました…。タイヤが穴にはまって立ち往生した時は、「これはもうダメかな」と思いましたが、幸いその後、いつもは大渋滞のポイントが空いてたりして、滑り込みセーフでした。次回こそはハプニングではなく、仕事でRealtime Pressしたいものです。


【2012年11月29日】


本日二年ぶりにコロンベと会えました。戦災孤児の彼女と初めて会ったのは1998年でした。当時は赤ん坊だった彼女も、もう16歳になりました。本当は今日写真を撮る予定だったんですが、家族が病気と聞いたので今日はお見舞いだけで明日再訪してきます。






【2012年11月30日】

子どもたちとサッカーに興じるコロンベ
昨日はコロンベの家で、彼女と家の子どもたちとサッカーをしたりして楽しい時間を過ごしました。1995年に初めて訪問し、ジャーナリストという仕事の光と影を教えてくれたルワンダは私にとって特別な国です。しかし2000年頃から、何をもって取材の終わりとすれば良いか迷いはじめました。

そんな時、まだ幼かったコロンベの笑顔を見て「戦争孤児のこの子が結婚して子どもを産み、自分の家族を持つまでを記録しよう」と、ふと思いつきました。

いつになるか分りませんが、ルワンダで撮影する最後の一枚は「腕の中に自分の子どもを抱え、旦那さんと一緒に幸せそうに微笑むコロンベ」になる予定です(ただ、実際にいざ年頃になってきた姿をみていると、変な男に引っかからないか心配で心配で…)。

2012年8月16日木曜日

紛争地を取材するということ

山本美香さんがシリアで亡くなられた事件、非常にショックで、ここ数日自問自答を続けていました。
遠い昔に一度簡単にご挨拶させて頂いた事しかなかったのですが、各種メディアを通して常に紛争の最前線で取材をされている姿を拝見しており、ジャー ナリストとしての姿勢を尊敬するとともに、私には、怖くてとても踏み込めない現場に足を運ぶ行動力と勇気に畏敬の念を抱いていました。
シリアには行ったことがない上に詳しく情勢を分析していたわけでもないので、ネットに溢れているシリア関連の動画と、海外メディアが伝えている ニュースから想像するしかないのですが、様々な不確定要素が複雑に絡み合う、全ての判断が非常に難しい現場だったのではないかと思います。
山本さんの映像にもあったように、市中にはまだ一般市民が残って生活しているうえに、見た目で政府軍と反体制軍の区別がつきにくい。さらには空爆もあり、恐らくスナイパーもいたことでしょう……。
どこが比較的安全で、どこが非常に危険なのか――。

その境界があまりにも曖昧で不確定、さらに刻々とその状況すらも変化する現場。
山本さんが最期に撮影された映像を拝見し、「もし自分がこの場にいたら?」と想像すると、経験豊富な山本さんですら読み切れなかった危険な兆候を、サラリーマンを兼業し年に一度しか取材に行かない私が感じ取れるはずもなく……。
恐怖で手に嫌な汗が噴き出し、自身の死とその死が周囲の方々に及ぼす影響について沈思しました。
紛争地を取材するフリージャーナリストという職業は派手なイメージが強いかもしれません。
しかし実のところ金銭面でも精神面でもなかなか厳しく、単純に職業として考えた場合、あまり割に合わない仕事です。
「ではなぜ、好き好んで危険な現場に足を運ぶ必要があるのか?」。

他の紛争地を取材するフリージャーナリストに確認したわけではなく個人的な考えですが、それは誰もが心に持つ「幸福という名のパズル」を完成させるために必要なピースが、偶然そこにあるからではないかと思います。
「幸福」というのは非常に難しい物で、人それぞれ基準が異なる上に時間の経過と共に変化し続けるため、紀元前から世界各国の偉人賢人たちがその解明に取り組んできたにも関わらず、未だ「こうすれば一生幸福でいられる」という明確な手法はありません。
家族・恋人・友人・社会的地位・自己顕示欲・お金・健康・安定・刺激・使命感などなど、人は各々「幸福という名のパズル」を完成させるためのピースを無数に持ち、さらに個々のピースは「人によって」さらには「その時々」で、その「大きさ」や「形」が変化します。
その「幸福という名のパズル」を完成させるために必要な「最大のピース」が、偶然、紛争地と呼ばれる場所にあり、たまたま「伝える」という形だった人が、紛争地に赴くフリージャーナリストとなるのではないかと私は思っています。
昨今の紛争は様々な要素が複雑に絡み合いその要因は複雑化していますが、いまこの瞬間もシリアを始め銃弾が飛び交う最前線では、戦う人々双方に信じる正義があり守る物があり、その思いが悲しみと憎しみを生み出し続けています。
今回自問自答を続ける中で、「紛争地取材を止める」という選択肢も考えました。
しかし考えれば考えるほど、私にとっての「最大のピース」が――「人の手により生み出され、人の手により解決可能な『理不尽』の根絶」――である限り、そ して今まで取材を受けてくれた方々を裏切らないためにも、やはり紛争地取材は避けて通れないと再認識するに至りました。
どんなに注意しても準備しても、100%の安全を確保することは不可能です。でも可能な限り100%に近づける努力をし、今まで以上に「無事に帰国する」という強い意志を持って、自分のペースで取材を続けていこうと改めて決意しました。
「なぜ紛争地取材を続けてるんですか?」、「数多くの紛争地を見て、人間とは何だと思いましたか?」、etc。
業界の末席に名を連ねさせてもらっている身として、山本さんに色々お聞きしたかったです……。
山本さんの夭逝に心から哀悼の意を表します。

2012年7月30日月曜日

エボラ出血熱

隔離病棟入り口
エボラ出血熱、感染容疑者隔離病棟入り口 (撮影/ウガンダ 2001年)

ウガンダで三度目のエボラ出血熱が発生しています。
バイオセーフティーレベルで最も危険なレベル4に分類されるエボラ出血熱は、未だ自然界の宿主が分からず、有効な治療方法もありません。

その 感染経路は接触感染だといわれていますが、フィロウイルス科のレトロウイルスであるエボラウイルスは、その性質上、自らを複製する際にコピーミスを起こしやすく、突然変異を起こし飛沫感染になる可能性もあり得るそうです。

私は、初めてウガンダでエボラ出血熱が発生した2000年に、アウトブレイクの中心地だった町に入ったのですが、銃弾が飛び交う戦場とは全く異なる「眼に見えないウイルスの恐怖」を肌で感じ、「なんでこんな所に来ちゃったんだろ……」と心の底から後悔しました。

しかし取材を通して、「感染の恐怖と戦いながら隔離病棟内で感染容疑者を診察する医療従事者」、「WHO(世界保険機構)やCDCなどの国際機関の迅速な対応」、「感染拡大を防ぐため地域を巡回して聞き取り調査を行ったり、病院や医療スタッフのサポートなどを行うウガンダ各地から駆けつけたボランティアの方々」など、「人間vs感染症」の最前線を見させてもらい、そのシステマチックな対応と人々の勇気に感銘を受けました。

残念ながら今回もすでに14名の死亡者(感染者20名/2012年7月30日時点)が出てしまい、内9名は一家族とのこと……。
おそらくその原因は、2000年のアウトブレイク時も同様のケースが多数あったのですが、現地の風習として行われている死者との最期の別れとして行われる「口づけ」だと思われます。

ウイルスの活動が最も活発になるのは亡くなった直後であるため、その「口づけ」により死者の表皮から感染してしまうのです。
「正直なところ、何人かの人が亡くなるまでその症状がエボラだとは分からない」。
2000年の取材時に、現地で治療をしていたある医療関係者から聞いた言葉です。事実、エボラだと判明するまでに診察・治療した医療関係者が、今回も2000年も亡くなってしまっています。
「口づけ」の風習も同様で、その疾病がエボラ出血熱だと分かるまで防ぎようがないでしょう。
飛行機を始めとする高速移動体が網の目のように張り巡らされている現代。
アフリカのウガンダで発生したエボラ出血熱が他国に飛び火する可能性はゼロではないと思いますが、各国で可能な限りの準備は行っています。

(日本も2000年のアウトブレイク時に、ウイルス性出血熱の診療を目的に初めて日本人専門家5名を現地に派遣したり、各空港で感染症対応訓練を行ったりしています)

しかし、国の対応だけではウイルスは防ぎきれません。
最も重要なのは、我々一人一人が日々注意することです。

「一般的にできる最大にして唯一の予防方法は、手洗いだね。外出先から帰ってきた時、食事の前、トイレの後、こまめに石けんを使い手を洗う事こそが、誰でもできる最も効果的な予防だよ」。

2000年のアウトブレイク中に行われたプレスカンファレンスで、「私たち一般人がウイルスから身を守るには、いったいどうすればよいのか?」とのウガンダ記者からの質問に対し、最高責任者だった厚生大臣が返した答えです。
子どもの頃から耳が痛くなるほど聞く台詞ですが、アウトブレイク中に聞くととても重く、以来私はこまめに手洗いをするようになりました。
現在も現地では多くの方々が感染拡大を防ぐため、最前を尽くしてくれています。亡くなられた方々に哀悼の意を表すとともに、今も最前線で戦い続けている関係者の方々の無事と、一刻も早い終息を心から祈ります。

【関連リンク】 Gallery~「見えない暗殺者-エボラ出血熱」 

2012年4月8日日曜日

4月6日

タンザニアからの帰還難民
タンザニアから帰還してくるルワンダ難民 1996年

もう一昨日になってしまいましたが、4月6日は私にとって忘れられないない日です。
18年前の1994年4月6日。アフリカのルワンダで同国と隣国ブルンジの大統領が乗った飛行機が撃墜されました。当時アルバイトをしていたホテルの食堂で偶然見たそのニュースで私の人生は大きく変わりました。

「両国大統領を始め搭乗者は全員死亡。犯人は分かっていません」と冷静に語るアナウンサーの声を聞きながら、エチオピア・モロッコと取材に大失敗し「もうアフリカはこりごり」と思っていた私は、その時「またこれで戦争か」程度にしか感じず、全く関心がありませんした。
しかしその一年後、何となくアフリカが恋しくなった時、なぜか頭にその時に見たニュース映像が浮かんだのです。

そして内戦終結から1年半ほど経った1995年12月。
見えない何かに導かれるようにルワンダの地を踏み、現地で活動していた日本人の方々や、虐殺を逃れた人々、荷担した人々、そして殺害された人々に多くの事を教えられ「ジャーナリストをライフワークにする」と思い定める事が出来たのです。

あれから18年。
「アフリカの奇跡」といわれる発展を続けている現在のルワンダには、虐殺記念館などを除き、目に見える形で当時の傷跡はどこにも残っていません。
しかし人々の心から「あの悲しみと苦しみ」を消し去るには、まだまだ時間が必要だと思います。

残念ながらルワンダを含むアフリカ大湖地域は、ここ最近色々と焦臭いニュースがまた多くなってきていますが、18年前の悲劇を繰り返さないよう「自 分にできることを精一杯やらなければ」と思いを新たにするとともに、ルワンダ内戦で亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りします。

2012年1月15日日曜日

映画「マシンガン・プリチャー」

2月4日から公開される映画「マシンガン・プリチャー」へのコメント依頼を配給会社の方から頂き、昨日、原稿作成のため送付してくださったDVDを拝見しました。
(同映画の重要な要素の一つとして、私が2000年から継続取材しているウガンダのゲリラ組織LRA〔神の抵抗軍〕が出てくるため、お声かけしてくださったようです)

簡単に映画の内容をご紹介すると――
「あるきっかけで神を信じるようになり更生した元麻薬売人のアメリカ人が、更生の過程で偶然知ったLRAの脅威に晒されている子どもたちを救うためアフリ カにわたり、様々な紆余曲折そして葛藤を抱えながらも自分の信念を信じ、自信の手に銃を持ち戦うことで子どもたちを救い・守る」
というストーリーです。

このように書くと、正義の象徴である主人公が悪と戦う「よくある勧善懲悪な映画」と思われてしまうかもしれませんが、この映画が違うのは、主人公は決して 正義ではなく、そしてその行動も「正しいとも間違っているとも言い切れない」こと、そしてすべてノンフィクションであることです。

実は私もウガンダ北部の取材中に主人公が感じたのと同種の無力感や葛藤を抱いた事があり、「人類なんて滅びてしまえばいいのに。ジャーナリストなんて仕事、誰も救えないじゃないか。もう死んでしまいたい」と世界と自分に絶望したことがありました。

幸い気持ちが底の底に落ちきる前に、リハビリセンターで「元子ども兵士」だった子どもたちの「生きたい」「なんとしても生きるんだ」という姿をに救われ、今も生きながらえ、細々とですがジャーナリスト業を続けることができています。

そのためこの映画にはとても感情移入ができ、「自分が正しいと思えることを見い出し、実際に行動に移した」彼に対し(賛否両論はあると思いますが)、尊敬の念と敬意を抱きました。

一人の男の生き方を通し、「今の世界が抱える矛盾」・「人間の命」・「人生の歩み方」を考えるきっかけになる、とても素晴らしい映画です。
(感情移入しすぎているため表現がちょっと大げさかもしれませんが…)

もし興味をもたれた方がいれば、是非見ていただきたいと思います。
【映画公式サイト】→「マシンガン・プリチャー」
【Photo Gallery 】→子ども兵士

(追記)
映画「マシンガン・プリチャー」に関してもう一つ。
エンドロールでご本人の顔写真が出てくるのですが、それを見て遠い私の記憶の中でずっと引っかかっていた事が解決しました。

あれは2002年か2003年頃だったと思うのですが、当時のウガンダ北部はまだLRAの脅威が色濃く、夜になると1万人を超える子どもたちが襲撃 を恐れ周囲の村から北部最大の町「グル」に避難してきており、日中でさえ、グルの町から出るには軍のエスコートが必須という時代でした。

ある日の夕刻、取材を終えてホテルに戻る道中で立ち寄ったキオスクで、砂糖やソーダ・ビスケット・クッキングオイルなどを「超大人買い」してピック アップトラックの荷台に次々と積み込む、丸太のような腕に入れ墨をした人相の悪い一人の白人と武装した黒人の集団と出くわしました。

とにかくその雰囲気が異様で、「目を合わせちゃいけない…。目があったら何されるか分からない」と怯えた私は慌てて車に戻り、その一行が最も危険だといわれていたスーダン国境に続く道に、夕闇の中荒々しく立ち去って行くのをサイドミラー越しに見送ったのです。

その後キオスクの主人に尋ねてみると、「ああ、あれはどこにも所属しない個人の軍隊みたいなもんだよ」といわれ、「賞金稼ぎみたいなもんか。それにしても この時間から町の外にでるなんて自殺行為じゃない?いったい何者なんだろ?」と、ずっと頭の片隅に引っかかっていたのです。

エンドロールの写真、まさしくあの時に見た人相の悪い白人、チルダースさんご本人でした。

軍人でもめったに感じることのない「触れただけで叩きつぶされそうな圧倒的なオーラ」、映画を見て納得しました。